ちいさな工房の毎日を綴ります。
題して
「ふつうの木工家?のふつうの日々」

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2005年03月17日

知らないことって幸せなんだろうか…。

仕事とは直接関係のないことであるが、ネットで調べものをしていたときに引っかかってしまい、つい深追いしてしまった。
はじめは、世を騒がす書き込みがちょくちょくあることで有名なネットの巨大掲示板について、その立ち上がりまでの経緯と運営にまつわるあまり芳しくない話だったのだが、そこから、少し前にブームになったその掲示板から発生した恋愛物語の本が、ノンフィクションだと認識されていることが、実はすべて仕込み、いわゆるネタであり、そこに参加した匿名の不特定多数の投稿者達は単に利用されただけだったということを、事実と検証しながら、いわば暴露しているサイトに辿り着いてしまった。
こちとら無垢な子供じゃないわけだから、奇麗事で世の中済まないことはわかっていても、なんだか複雑な気持ちになった。
なんかこう、ものつくってても表に出なけりゃもう何でもありかいな!!というか、
ユーザーも、自分が楽しかったり、便利だったら、その裏であっかんべーされてても、誰かが苦しんでても、知らなきゃどうでもいいのか?(それが現代ってモンさ…)

以前、聞いた話で、

誰が、何を使って、どのような方法で、どんな加工しようが、完成したもの、それが人の心にどう訴えるのか、その結果がすべて。それがプロの仕事というもの。

という言葉があったが、これは、広く流れを知った、ある種完成した人の口から出た言葉であるから、一理あると共感できるのだが、これを下手に都合良く解釈してしまうと、すごく怖いことだとも思う。
極論を言えば、あるひとつの椅子があって、それがすごくすばらしいと評価を受けている。
でも、その材料を取る為に、山をいくつも丸裸にしていたり、外国で盗伐されていたり、加工の人手が奴隷のようにされている人々だったり、ものすごく歩留まりが悪くほとんどの材を廃棄していたり…、
そういうマイナス要素をすべて風呂敷に包んで、シートの中のクッションに隠してあったとします。
受け取る側の感性や知識ということもあるのでしょうが、ほとんどの方は、そんなことには関心をしめさない、というより知ることができない訳ですが、でも実際自分の知らないところでは、とんでもないことになっている。
なんとなく今の嫌な風潮に通じるように感じるのは、自分だけだろうか?

多分、この言葉の中にあるプロというのは、すごくレベルの高い位置を指されているように感るし、また受け取る側(ユーザー)の意識レベルもしかりに思う。

いくら儲けて、大金を動かしてようが、多くの人を顎で使おうが、プロというのは、自称ではなれないように思うし、(胸が痛い)また自意識がなくてもなれないように思う。(すごく胸が痛い。)

すべてを知り、すべてを実行することは、確かに容易いことではない。
かといって、都合の悪いことから目をつむっていられる余裕も、今の状況からすればそうも無いように思うのは自分だけか?

質、虚実を棚に上げれば、ネットの上に情報というのは、膨大にある。
知ろうと思えば、その気になればいろいろなことを知ることができる。
あまりの深さで、そこで溺れてしまう怖さを孕んでいることも、十分察せられる。
それ故に、判断力、自分の意志、考え方というものが、ますます求められていくし、必要になってくるように思う。
なんか危うい、おかしいと感じる直感力も大切。
そこにあるもの、目に見えるものだけが真実ではないという、当たり前のようにいわれていながら、案外疎くなっていることを、もう少し考えることが必要なのかもしれない。

と、なんだか新聞の論調みたいになってしまったが、仕事が進んでないから誤摩化してるということでは△×○…。
今日はそんなとこ。(都合が悪くなると…。)
(あんまり書きすぎると、抹消されたりしないかな…?)

投稿者 KAKU : 2005年03月17日 23:59

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